のぞみのデュアルライフ(2拠点暮らしと養生方法)

不仲な親の介護と実家のゴミ屋敷化に悩む皆さんへ 

中華料理屋さんのメニューが家庭で出てくるわけじゃない

中国語レッスンでおうちご飯の解説

共働き家庭がほとんどだから毎日できないことはやらない。はい、そのとおりですね。私も当時は珍しい共働き家庭で育ちお母さんの味というものはほぼ知りません。いつも買ってきた惣菜ばかりでした。

 

今の中国も特に若い世代はあまり自炊はしないそうです。どうやらお店のメニューが家庭で出てくるわけじゃないようです。

家常菜 おうちごはんとは

西红柿鸡蛋 定番のトマトと玉子の炒め物ですね。どちらも安く手に入り簡単に作れます。地域によっては魚が入ったりするそうです。これは大連のレストランで食べました。

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四菜一汤(おかず四品とスープ)

凉菜とよばれる前菜二品 皮蛋拌豆腐(ピータンと玉子の和え物)や蘸酱菜(きゅうりなどに味噌をつける)と先ほどのトマトの玉子炒め焖蛋(じゃがいもやゴーヤなど玉子であえて蓋をして蒸す)に排骨汤(骨つき肉と野菜のスープ)のようなメニューが一般的なようです。

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ピータンのどこが簡単なのか⁇質問すると「売ってるのを使います」という返事でした。

 

お店で提供されるような手の込んだものは料理好きな人やリタイアした同居する親などが作りますが多忙な現役世代は作らないそうです(お家ご飯が廃れていく寂しさもありますね)

ゴールが見えないから介護は苦しい

不安情報に煽られないで

ネガティブな情報が多いので殆どテレビは見ませんが、それでも介護殺人や施設の入所希望が300人待ちとか未来を憂いたくなる話題が多い気がします。

 

不安だから対策に走りたくなる。

 

ええ、わかりますとも。

 

介護を卒業してもすぐ自分の番ですしね。

 

じゃ、どうすれば不安を取り除けるの?

 

残念ながら答えはありません。

 

認知症に対応した保険に入るもよし、介護費用が想像できないから貯蓄に励むもよし、介護予防のため運動を習慣にして社会参加をするもよし、そこはすっ飛ばして終活してもよし。

人生はつづく

しかし必ず終わりがくるのが介護です。その先の自分の人生もちょっと視野の片隅においておきましよう。

 

「介護卒業したらあれしてこれして」と妄想を楽しみ今から少しでもやれそうなことに手を出しておくのもいいですよ。なにより介護以外のことに集中する時間を持つことで介護の息切れを防げます。

 

ちなみに私はヨガのインストラクターコースを受講し漢方スクールに通い書道と中国語とピラティスを嗜みました。やりきれない気持ちを分散させることでなんとか10年に及ぶ遠距離介護を走りきれたと思っています。

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認知症になっても髪は伸びる さてどうする

介護されるようになっても髪は伸びる

自分のことが自分でできなくなるうえ散髪や爪切りもしてあげないといけません。しかし床屋さんへ連れて行くのは大変で、例えば車椅子のまま入れるお店はどのぐらいあるでしょうか⁇

info.dual-life.site

訪問理容の存在を知ってほしい

私も母がまだ自立歩行できていたころは付き添いしていましたが、ほかのお客さんと被らないよう予約したりそれに合わせて帰省するなどもう無理でしたから介護施設に訪問してくれるサービスを利用しました。

 

こうなってみてはじめてわかる困りごとって案外多いものです。自活できてるときはまったく気づかないものですが。

相手と自分を分離できない苦しさ

自他の区別ができないのは幼稚

家族、友人、身近な人が自分と完全一致するはずはないと頭でわかっていながら「なんであんな言動・行動するんだろう⁇」と苛立つことは誰しもあるはずです。私もそうです。で、逆をされるととても不愉快です(笑)

一心同体を求めるなかれ

同じ集合体にいるのだから同じ考えでなければならない、なんていつから思わされてきたんでしょうね。人はみんなそれぞれ違うはずなのに。ルールは必要ですが価値観は強要すべきではないですね。

 

私がそういう場面で激しく拒否反応が出るのは、未熟な私なりの価値観をなんとか自分たちの都合に合うものに書き換えようとする両親に辟易していたからです。

 

社会にでてからも「私は私、あなたはあなた」という自他の区別のつかない幼稚さで私を無意識に拘束しようとする人にたくさん出会いました。

寂しさに巻き込まないで

「あなたはそうなのね、でも私はそう思わないから」といった途端に不機嫌になる人を何人もみてきて、寂しいのだろうけれどそれもその人の問題であり自他の区別をもってすれば私を巻き込まないでほしいの一語につきます。

 

なんだかえらくドライに感じますか⁇

 

所詮まったく同じ人間などいません。どこか触れ合う部分だけ共有しあえたらもう充分と思うのは年齢を重ねたせいもあるかもしれませんし、自分と同じにさせたがる人が嫌なら自分もしないのは基本だろうと思っています。

己をととのえる大切さ

いいコンディションでいるために

誰しも常にいい状態を保つのは難しいですよね。介護家族がいたり、仕事で嫌なことがあったり、私生活も問題を抱えながらだとなかなか理想通りにはいきません。

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私がしょっちゅう座禅会やヨガや書道にかよっていたのは自分だけで心身をととのえるのに限界を感じていたから。誰かに誘導してもらい雑音のない場に身を置きたかったんですね。

結局ととのったのか⁇

立っている地面が動いているのについていけてない状況から少し俯瞰できるようになりました。「寄り」「引き」でみる癖もついたかもしれません。それと「どうせうまくいく」という根拠のない自信のようなものがうまれました。

 

自分が変な周波数を出さなくなったからかもしれませんね。苛立っているとそういう人や出来事が近寄ってくる、穏やかでいればそれに呼応することがおきるというごく当たり前のはなしですね。