あたりまえじゃなかった
道の駅で久しぶりに山椒の実をみつけました。実家のお稲荷さんの横に山椒の木があって、毎年5月の私の誕生日は父がその葉で山椒味噌をつくってふるまうのが恒例でした。当時はむしろケーキにチョコレートで名前をかいてもらってリボンのかかったプレゼントをもらうみたいなのを期待していたんですがいちどもなかったですね(笑)どうやら私の期待と親がしてあげたいことが噛み合っていなかったようです。それがいつも不満でしてもらえてる友達が羨ましかったですねぇ。


しかしそれも世間の価値観のすり込みでしかなく違う祝い方があることに気づけない側の問題でした。こういったことにいつまでも囚われていると拗らせた大人が完成するんでしょうね。そしてやってもらえた友達をひたすら羨むというね。幼少期の誕生祝いというのはやりなおしがききませんからなおさらです。私は「こうしてほしい」と言葉にする能力もなかった気がします。だから親もずっと私のニーズに気づかないままでした。
しかし中年すぎると当時としてはあれで精一杯だったのだろうと腑に落ちるわけです。多忙な共働きでせっかくの連休はからだを休めたい。でかければどこも混んでるし余計に疲れる。別棟とはいえ祖父母も同居していて気疲れ半端なかったでしょう。プレゼントなら忘れてしまうだろうけれど山椒味噌なら実体験としてずっと記憶に残るという仕掛けだったのかな。後付けですがね。
親が亡くなってからわかることって要所要所にあります。私はけして愛されていなかったわけではないのです。当時の記憶をたどりながらちりめん山椒を炊いて味わいました(ちなみに山椒の粉は毎朝マサラチャイにふりかけて飲んでいます)