のぞみのデュアルライフ(2拠点暮らしと養生方法)

不仲な親の介護と実家のゴミ屋敷化に悩む皆さんへ 

肉体を失ってもその人は存在している

あ、なんかスピリチュアルふうで怪しいけど(笑)これはたびたび実感することなんです。

 

実家の照明を全部消して出掛けたはずなのに、帰宅すると2階の私の部屋や仏間の灯りがついていたり、あれ、今だれかいるのかな?というような出来事があります。

 

そんなときはご先祖様の誰かがいるのかなと思うようにしています。勘違いかもしれませんがね。

 

先日も実家で駐車場の雪掻きをしていたら夕焼け空に飛行機雲が見えて、追いかけるようにもう一つ、さらに三つめの雲が同じ方角へ伸びていきました。

 

最初のは父かな、そのあとが母で、三つめは亡くなったばかりの満洲から引き揚げてきたおじさんかな?

 

私が実家の雑務で押しつぶされそうなときもタイミングよく雪掻き業者さんが助けてくれたり、灯油配達員さんが同級生のご主人で私不在でも補給してくれたり、さりげなく助け舟を出してくれます。

 

ほしいタイミングでほしいものが与えられるのは偶然にしてはできすぎています。

 

自分の力でやれることなど一つもありません。

 

見えない存在がいつも私を守ってくれているのだと思います。

 

同級生は宝物

地方の田舎だと学校区が1つしかなくて幼稚園から高校までずっと一緒、親同士も知り合いだったり遠い親戚だったりとかく息が詰まるものです。

 

自意識過剰な私はそういう環境が嫌で早いうちに地元を出てしまいました。

 

なにしろどこへ行っても知り合いだらけで1人の時間が持てないんですから。

 

しかし長い年月を経て親の介護に千葉から通うようになると、地元で助けてくれる人がいるかどうかで介護のクォリティが左右されることに気づきました。

 

知り合いだらけはむしろチャンス‼︎

 

実際は母の徘徊や失禁が酷かった頃は誰かに連絡を取るなどの余裕すらありませんでしたが、介護を卒業した今だと当時のことを冷静に話せたり、これからの子たちにアドバイスめいた話ができたりします。

 

どうぞ私を利用してくれ、という感覚でしょうか。

 

先日36年ぶりの同窓会に参加し日頃会えない子たちと再会できて、わだかまりなく話せたのは本当に嬉しい出来事でした。

 

ずっと地元に残ってる子たちが案内状を作ったり恩師に連絡を取ったり面倒な事務をすべて引き受けてくれました。

 

私と連絡を取り合っていなくても親同士の葬儀には参列したり地元ならではの関係性の子もいます。

 

若い頃は面倒なだけの人付き合いでプライバシーがないとか青い私でしたが、今となっては親や祖父母からのお付き合いに救われているのでした。

 

 

所有で心は満たされない

本音を語れる友達がいなかった母は、常に人前でいい人を演じるストレスを買い物で紛らわせていました。

 

買い物の高揚感はいっときのことで持続性はありません。

 

すぐにまた別の買い物で虚しい気持ちを紛らわせようとします。

 

欲しくて買ったわけではないガラクタはどんどん奥へ押し込まれ忘れられ、また似たような買い物を繰り返します。

 

収納がいっぱいになるとクローゼットまで増やします。

 

それらを置く場所がなくなると増築します。

 

どこまで買えば満足するんでしょうか。

 

買い物依存症などの言葉がありますが、異常な消費行動を指摘されたり自覚したら、専門家に相談したほうがいいかもしれません。

明日生きてると限らないから会いたい人には会っておこう

終戦後、満洲から我が家に引き揚げてきた親戚のおじさんと去年の夏に初めて会いましたが、昨年末亡くなっていました。

 

info.dual-life.site

 

 

父と兄弟同然に育ったのに父が亡くなったことを知らなかった、お墓まいりしてお線香をあげたいとわざわざ連絡をもらいました。

 

ちょうど私の帰省の予定と被っていて、なぜその日を指定してきたのか不思議でした。

 

(私が大家さんを務めるピアノ教室の生徒さんの発表会を聴きに行く週でした)

 

またもタイミングがいい‼︎と思い、仏壇回りを整えてお茶菓子などを準備して待っていると、背筋の伸びた高齢男性と奥様が現れました。

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私は彼のお兄さんの書籍の中でしか知らなかったので、ああこういう人なんだと初めて認識できたのです。

 

満蒙開拓団として一家で中国大陸へ渡り、終戦を知らされず関東軍にも見放され親ともはぐれ着の身着のまま宮城県の実家へ辿り着いたのです。

 

我が家でさまざまな思い出話をして、懐かしく庭を散歩したり従兄弟たちの近況を聞いたりして帰って行きました。

 

その翌月、私の母の容態が急変し9月に看取って、その時は肺の具合が悪く療養中だと電話で話していました。

 

母の四十九日の案内を出して最後に話したのが10月でした。

 

あ、やっぱり自分の死期ってわかるものなんだな。

 

だから父の焼香に高速を使ってまで来てくれて、お悔やみやお供物をあげてくれたんだ。

 

際どいタイミングで会ってお話しできて本当に良かった。

母の入所施設へご挨拶に

去年の9月に母の容態が急変して介護施設を慌ただしく退所しました。

 

入院先のドクターがもう施設へ戻ることはないと判断したため、簡単な書面を出して1年にも満たない施設での生活が終了しました。

 

母の個室のタンスや衣類などはそのまま次の方に利用してもらうことにして、大掛かりな引っ越しはありませんでした。

 

葬儀や父の一周忌と同日に四十九日法要を執り行い、私も体調を崩し施設スタッフさんにきちんとしたご挨拶ができずにいました。

 

いつも心のどこかにやり残しがあるようでもやもやしていましたが、今回の帰省でヘルパーさん事務所やシルバー人材センターさんにもご挨拶ができてようやくすっきりしました。

 

仲良しだった介護スタッフさんが「のぞみさんとお話ししたかったのよ〜」と迎えて下さって久しぶりに近況報告もできました。

 

いつも限られた時間内に用事を済ませなければならず、午前中だけで3件回ってNTTの名義がどうこうの面倒な書面を郵送したら、辛いみぞおちの痛みが楽になってきました。

 

まさに心身一如。

 

問題を抱えていたり、解決方法がわからなかったり、不義理なことをしていると痛んできて1つでも解決すると楽になる。

 

わかりやすいですね。

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少し楽になったのでお気に入りの隠れ家蕎麦屋さんへランチに行き自分を労ってあげました。