のぞみのデュアルライフ(2拠点暮らしと養生方法)

不仲な親の介護と実家のゴミ屋敷化に悩む皆さんへ 

弱いって早めに認めたほうが楽だよ

以前、介護の辛さをきいてほしさにケアラーズカフェに通っていました。

 

しかしそこは60超えたいい大人の愚痴の掃き溜めでがっかりしました。

 

そもそも期待したのが間違いだったのですが。

 

連れ合いが認知症になった男性がしきりと行政への不満を訴えていました。

 

???

 

えーっと、個人的な悩みや困りごとも行政が対応しないといけないの⁇

 

なにか履き違えている様子でした。

 

定年退職してのんびり暮らそうと目論んでいたのが外れた、どうしてくれるんだ‼︎とでもいいたげでした。

 

大勢の前で認知症の連れ合いをなじり、自らの立ち位置をはっきりさせておきたがる態度に嫌気がさしてしまいそこへ行かなくなりました。

 

あ、なんだか父に似てるかも。

 

そしてこの手の相手に恥をかかせるような男性上司って多いよな。

 

結局サラリーマン時代の意識のまま介護生活になったんだな。

 

困っているなら助けてほしいと早めに言えるようになると楽ですよね。

 

そもそも弱みを見せられるような人間関係が築けていなかったわけでしょう?

 

これまで思ったとおりに生きてこれたかもしれませんが相手あってのことですからね、そうはいかないでしょう。

 

うちの父もそうでしたが、母が機械のようにいつまでも壊れず動き続けてくれるとでも思っていたようですが機械も壊れますしね。

 

人間ならなおさらです。

 

自分の都合に合わなくなったから元のようになってほしいとか、それは己のエゴでしょう。

 

元には戻らないんですよ。

 

嫌でも受け入れるか切り捨てるしかないのですから。

やっぱりカモネギだったのか⁇大家さんとして幸せな瞬間

先日帰省していたタイミングで私のピアノ教室を見学にいらした生徒さんが、さっそくクラビノーバをご購入されたと管理会社さんより連絡がありました。

 

教室担当さんはちょっと頼りないメンズで入会手続きなど不安に感じていましたが、上手く上司に繋げて販売まで至ったようです。

 

私が対応したときもお母様に「家での練習用に買ったほうがいいですか?」と聞かれましたが、勇み足はよくないので「少し習ってみてから検討されては?」と返事しておきました。

 

しかしごきょうだい2人で習う、うえのお子さんは保育士受験を目指して課題曲の習得を控えています。

 

筆記試験だけではないですから納得いく練習を自分なりにしたいのでしょう。

 

夏には発表会もありますしね。また楽しみが向こうからやってきました。

 

これからの若い人たちの未来に少しでも関われること、私の家やピアノを使ってもらえることが本当に幸せです。

 

こんなふうに時々神様からプレゼントがあるので地味な大家さん業を続けられるのかもしれません。

突然死に予兆がないわけじゃない

父が突然死して1年過ぎましたがまったく予兆がなかったわけではありません。

 

高齢ですから多少のなにかしらはありますし想定内と思っていました。

 

父は定期検診を欠かさず健康管理も人一倍気をつけていました。

 

母を介護するようになってからはなおさらでした。

 

しかし亡くなる半年前に突如言動がおなしくなり小さな脳梗塞が見つかりそこからMCI(軽度認知症)と診断されました。

 

その2ヶ月あと、やたら足首が浮腫んで何ヶ所か通院に付き添いました。(靴が履けなくてサンダルを履いていました)結局検査しても原因はわかりませんでした。

 

通いのヘルパーさんが「お父さん最近ぼんやりしてることが多いのよ」と教えてくれました。

 

私は血圧や胃腸を整える薬に新たに加わったリバスタッチという認知症を予防する薬のせいかもしれないと思い込んでいました。

 

薬は人それぞれどんなふうに効果が出るか、他のものとの飲み合わせやその人の体質でわかりません。

 

薬剤師の友人が父の掛かりつけでもあり、お薬データを全て持っています。私は飲み合わせや副作用のことを訊ねましたが「年齢の割にかなり種類が少なくこの組み合わせは大丈夫ですよ」とアドバイスされました。

 

新しく受診する病院にはファインリングしたお薬データを持参しドクターに提出していました。(両親のをそれぞれファインリングしていました)

 

おそらく小さな脳梗塞のせいで毎日できていたメールの打ち方や洗濯機の操作までわからなくなりましたが1週間ほどで元に戻り安心していました。

 

亡くなる2日前から風邪気味で受診していました。

 

亡くなる3時間前まで私とメールしていました。

 

1人で夕飯を済ませ後片付けまできちんとし日記を書いていました。

 

冷蔵庫の中に、母と半分ずつ食べていた食パンの片割れが残っていました。翌日ショートステイから戻る母に食べさせるつもりだったようです。

バリアフリー改修の道のり

認知症の母を在宅介護するにあたりまずは魔窟のようなゴミだらけの室内の片付けからスタートしました。

 

出るわ出るわ大型ゴミばかりの搬出だけで3年かかりました。

 

毎月新幹線で通い介護や通院付き添いと並行しながらの作業でした。

 

あるタイミングで古くて使いづらい室内をリフォームしようという話が持ち上がりました。

 

やるなら今、親が生きているうちにやってしまわないと。

 

せめて快適な自宅で暮らしてほしいし、私も段差だらけの危険な室内で身体介助などしたくありません。

 

それにはまずは使わないものの処分から。

 

これが茨の道でした。

 

雪崩のおきる押入れ、物入れ、物置化した室内。

 

あとで気づきましたが酷い貧血でフラフラになりながらゴミとの格闘でした。

寒暖差疲労ってわたし的には日常茶飯事

昨今の異常気象で寒暖差疲労を訴える人が多く専門外来まであるのだとか。

 

気温差7℃のあいだをいったりきたりすると身体はどちらにも合わせられなくて悲鳴をあげる→自律神経失調症

 

もう10年も7℃近くの気温差のなか、母の介護でしょっちゅう宮城⇄千葉を往復する私は常に寒暖差疲労でした。

 

天気予報での温度差はせいぜい4〜5℃ですが私の実家は山沿いで予報より更に寒いのです。

 

楽しい旅行ならいざ知らず、どちらの環境にも身体が馴染まなぬうちに到着すぐ介護という年月を送ってきました。

 

我ながらよく倒れずやりきったなと思います。

 

実家では常に母の介護や父のサポート、掃除片付けケアマネとの面談、通院付き添い、その他もろもろ名前のない家事全般。

 

自分のケアも疎かになりがちです。

 

やっとの思いで帰宅すると疲労困憊でしばらく寝込むこともありました。

 

それが寒暖差によるものだと薄々気づいていましたがやっぱりそうだったようです。

 

ふだんは介護にコミットするため極力楽に過ごす工夫をしていましたが、私本来の生き方はできずにいました。

 

本当にこういう生活をしたいのか? 

 

考える暇もなく追いかけてくる親の介護。

 

逃げたところで責任の所在は私にしかないわけで。

 

どうせなら気分良くやりたいし、そのために自分のメンテナンスをしたい。

 

そういう経緯から他人任せの医療ではなく日頃の養生を心掛ける生活にシフトしていきました。