方言が喋れることは自分の強みです。
ひと昔前なら標準語で話す人をスマートと評価していたようですが。
私は生まれ育った宮城県の言葉と紀州弁、河内弁が話せて聴き取れます。
若い頃に縁もゆかりもない紀州に暮らし、紀ノ川が海のような川幅なことに驚き、大阪市南部に暮らしていた頃は独特なカルチャーの洗礼を受けました。
当時、地元と東京でしか生活したことのなかった私には特有のイントネーションが聞き取れず、こちらの話す言葉も理解されずしばしば困惑したものです。
紀伊半島の海沿いの小さな街で標準語を話す人など皆無で、私は当時の職場でも変わった人という立ち位置でした。
みな気性の穏やかな周囲との調和を大切にしている人々で、若かった私には刺激のないつまらない環境に映りました。
なぜ一生涯地元から出ようとしないの?
こんな退屈な街でなにが面白いの?
似たような人とばかり付き合っていて視野狭窄にならないの?
地域の人々が思ったことすらないような疑問が湧き上がってきました。
今のようにネットで遠くの人と繋がるなどできない時代でしたから、なおさらそう思ったのでしょう。
少々意識高い系の人は若いうちに大阪や首都圏に出て行き戻ってこない。
そう。だから大阪市内も近くの地方出身者が多いのです。
見分ける?ポイントは紀州出身者であれば、さ行がた行の濁点に変換します。
関西弁と一口にいっても地域によって微妙に違うんですよ。
「全部」→「でんぶ」
「全然」→「でんでん」とかね。
ほかに
「ゆっくり」→「のつこつ」
「行きましょう」→「行こうら」
「混んでる」→「つんでる」
お見舞いやご祝儀など集めて一緒に渡すのに賛同することを「いける?」(一緒に渡しますか?)
お茶菓子を皆んなに振る舞うとき「もうよばれた?」(もう受け取りましたか?)
「去る」→「もういぬわ」なんで猿が犬やねん。
「橋」「箸」「端」の区別は前後の文脈から判断しますが「端」や「側」を「はた」というので、○○の近くという意味だと認識しました。
「これとこれのどちらが好き?」と質問すると
→「こっちしか好き」しかってなに⁇
「まったくできないわ」は
→「いっこもできやんわ」いっこも⁇
そしてほぼほぼ敬語を使うことはなく、いきなりのタメ語で驚きますが、それはフレンドリーという解釈でよいかと思います。