その日が父と過ごす最後の日だと知っていても、あんな過ごし方だったろうか?
最後の日は実家から千葉の自宅へ戻る日でした。
朝に寝具の洗濯と部屋の掃除を済ませてから荷物をまとめてバス停まで送ってもらいました。
バス停で手を振ったのが動く父を見た最後になりました。
まだ残暑厳しい九月で、私はその前からみぞおちのつかえに悩まされどんどん痩せてきていました。
私自身、母の介護と父の認知症グレーゾーン診断によるショックでそろそろ限界かな、と思い始めた頃でした。
しかし途中で放り出すわけにもいかないので合間に楽しいことを挟みつつ、でも来月は帰省を一回休もうかな、などと考えていました。
いつも四週間ごとの帰省はすぐで、もう一ヶ月過ぎたの⁉︎というぐらいの速さです。
十月は母や祖母の誕生月でもあるし、しんどいけど短期滞在にしようと計画して新幹線のチケットを手配しました。
特に胸騒ぎがあったわけでもありません。
なんとなく自然な流れで父は肉体から離れていきました。
私が実家に辿り着いたとき静かに寝かされていて、抜け殻になっていました。
パパはこういうお別れの仕方を選んだんだな。
けして仲良し父娘ではありませんでした。父は自分の価値基準が世の中のすべてと勘違いしていましたから、それはそれで気の毒でした。
世界には想像すらできない生き方・考え方の人がいて正解などないと頭でわかりつつ肚(はら)に落ちていませんでした。
それゆえ私に要らぬレールを敷こうとして嫌がられ距離を置かれていました。
しかし晩年は人は思い通りになどならないと突きつけられる出来事ばかりで、魂のステージがあがったのかもしれません。
受け入れる・赦す・手放すが体感できたようでした。
わずかな年月でしたが一緒に母の介護ができたことは私にとっても最大のギフトでした。
お互いにやり尽くせて後悔はないので、寿命を逆算できてもおそらくいつも通りに過ごしたと思います。