危篤時間のながさ
母は容態急変からおよそひと月ほどで旅立ちました。そのあいだ千葉から宮城まで3回ほど往復したでしょうか。じっとしているのも辛くかといって動いてなにができるでもなし真綿で首を絞められるような毎日でした。
とりあえず聞いてもらう
イベントなどで初対面の方にまで自分の状況を聞いていただきました。いてもたってもいられないのになにもできない、かといって意思疎通できない母のそばにずっと付き添うのも苦しくなる。感情の持って行き場がありませんでした。聞いてくださった方々には感謝しかありません。
2度目の喪主体験
1年も経たぬまにまた葬儀をだすなど想像していませんでしたからね。なにより父の相続事務がようやく済んだばかりでまた母の相続手続きをしなければならない。気の重いことばかりです。悲しいより逃げ出したい気持ちでした。
葬儀を執り行い母の四十九日と父の一周忌を同日にする段取りを住職と確認し打ち合わせのためまた千葉と宮城の往復。料理旅館とのメニュー決め、引き物をなににするか、席次表など自分でやらねばなりません。分家の叔母にも相談しながら参列者にお知らせを出しお返事をうかがう。もうヘロヘロでした。